さっきまで話をしてたのに、突然彼がいなくなっちゃった。 その7  ズルリと足が滑った。涙のせいで視界がにじんでいて、そこがいきなり斜面になっているのに気が 付かなかった。 「きゃああっ」  短い草で覆われた斜面を、滑り落ちる。  お姫様が崖から滑り落ちて亡くなったというクロモの話が頭をかすめる。  死ぬの? わたし。  思った瞬間、目の前にパァッと光が現れた。光の糸で編まれた魔方陣はあっという間に広がり、 わたしの身体を包んでふわりと宙に浮かび上がらせた。そして気が付くと、平たい草の上、クロモの 前へと降ろされていた。 「何をしているんだ君は」  呆れたようなクロモの声が降ってくる。  草の上に座り込んだわたしはクロモの顔を見上げた途端、どっと緊張がほぐれた。と同時にボロボロと 涙がこぼれだす。 「だって、だって。クロモいなくて。呼んだのに返事なくて。どうしたらいいか分かんなくて……」  しゃくりあげながら、言う。きっと顔はぐしゃぐしゃだろう。でもそんな事どうでもいい。クロモが いた。クロモが、いた。  目の前にクロモがいる。それが大切だった。独りじゃない。クロモがいる。  するとクロモは「まいったな」とため息をつきながらわたしの前にしゃがみ込み、ポンポンと軽く頭に 手を乗せた。  わたしはもう我慢できなくなって、クロモにしがみついてわあわあと泣き始めてしまった。  この世界に来て精神年齢が下がったよねって思うくらい小さい子供みたいに泣いた。卵から孵った雛が 初めて見たものをお母さんだと思うみたいに、この世界で初めて会ったクロモを保護者のように 思っちゃったのかもしれない。 「ううう……」  さんざんわあわあ泣いてしばらくたつと冷静になってきて、赤ちゃんみたいに泣いた事がだんだん 恥ずかしくなってきた。 「い……いつもはこんな、泣き虫じゃないからねっっ」  顔を上げて言い放つと、思ったよりも間近にクロモの顔があって、びっくりした。恥ずかしくて 赤かった顔にますます熱が灯る。 「分かったから。もう大丈夫なら、退いてくれ」  言われて初めて、しがみついた状態でクロモの上に座り込んでいた事に気が付いた。 「ごごご、ごめんっ」  慌てて飛びのいて、尻もちをついてしまった。 「大丈夫か?」  そんなわたしを助け起こそうと急いで立ち上がったクロモの足が、もつれてよろける。 「うわっ」 「きゃあっ」  気が付くとわたしは草の上にクロモに押し倒された形になっていた。  さっきよりも更に近くにクロモの顔がある。息の触れるくらいの近さだ。クロモの澄んだ青い瞳が わたしの瞳を覗き込むように、こっちを見ている。  どどどど、どうしよう。  わたしもクロモも、真っ赤になったまま、固まってしまった。さっきもしがみついてたから、かなり 密着してたけど、今はクロモが上になってる分、彼の重みを感じる。心臓がバクバクと音を立てて 破裂しそうだし、呼吸困難になっちゃいそうだ。  どのくらいの間そうしていたのか。先に正気を取り戻して動いたのはクロモだった。 「悪いっ」  飛びのくようにわたしの上から起き上がり、そしてまた足がよろけて尻もちをついた。  そのクロモの慌てぶりを見たら少し、気持ちが落ち着いた。 「大丈夫?」  さっきの二の舞にならないよう、わたしはゆっくりと起き上がりクロモへと声を掛ける。 「その、わざとじゃない」  尻もちをついた拍子にフードの取れたクロモは、キラキラの金髪に青い瞳という王子様フェイスを 真っ赤にして首を振っている。  さっきわたしを押し倒した男の人とは別人のようだ。  かわいい少年みたいだなんて言ったら怒られるだろうから言わないけど、それでもその顔は好きだから しっかりと心の中に焼き付ける。 「うん、わざとだなんて思ってないよ。けどなんで足がもつれ……。あ! もしかして、わたしが ずっと上に座り込んじゃってたせいで足が痺れてちゃったのっ? ごめんなさい。そうよね、けっこう 長いこと座り込んじゃってたもんね。……その、ありがとう」  自分がわあわあ泣いてた事を思い出し、また恥かしくなってきた。けど、足が痺れても我慢して慰めて くれていたクロモの気持ちが嬉しくて、つい「ふふ」と笑ってしまった。 「何故笑う」  ふてくされたように言うそんなクロモも、可愛らしい。 「ううん。クロモがいてくれて、良かったと思って」  立ち上がったクロモはフードが取れていた事に気づいて被りなおした。顔が見えなくなっちゃって、 残念。 「それにしても、何故ひとりでこんな所に来た」  フードで顔が隠れちゃったせいで冷たく聞こえるその言葉。だけどたぶん、心配して言ってくれて るんだろう。  なんだか急に自分がバカな事をした気がしてきて赤くなってうつむく。すると斜面を滑り落ちちゃった せいで泥だらけになった服、それから手足にもすり傷がいっぱい出来ているのが目に入ってきた。  バカな事をした気がしてじゃなくて、実際バカな事をしちゃったんだ。 「……ゴメンナサイ。けど、何も言わずにクロモがいなくなっちゃったから、不安になっちゃって……」  落ち込みながら正直に告げる。ほんとにわたし、何やってるんだろう。  するとクロモは呆れたように息をついた。  こんな小さな子供みたいな事してたら、呆れられても仕方ないよね。そうは思うけど、胸がギュッと 痛くなる。  だけどクロモは静かに言ってくれた。 「それは……悪かった。次からは声をかける」 「うんっ」  クロモの言葉が嬉しかった。呆れられたと思ったのはわたしの勘違いだったのか、それとも本当に 呆れてたのに譲歩して言ってくれたのか。どちらにしろわたしを気にかけてくれた事が嬉しかった。 「とりあえず、帰るぞ」  そう呟くとクロモはパッとわたしに手を差し出した。まさか手を差し出してくれるとは思ってなかった わたしは、ドキリとする。  ついさっき間近で見たクロモの赤い顔を思い出す。  フードの奥に隠れたその顔は、まだ赤いのだろうか。 「うん、帰ろう」  笑顔でその手を取る。その温かな手の温もりが、心強い。そうして嬉しさと温かさと気恥ずかしさを 胸に抱えて、わたし達は二人の家へと足を向けた。

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