雪幻想      雪が舞う。視界を白く霞ませる雪。  そんな中で私は、来るはずのない人を待っていた。  そう、来るはずなんてない、約束もしていない。私がここにいる事もあの人は知らない。  冷たい風が吹き抜ける。雪が世界を知らない場所へと変えていく。  時折見かける人達はみな、足早に通り過ぎていく。  そんな雪の中、私と同じようにひとりの少年がポツンと立ち尽くしていた。  十歳くらいだろうか、その少年は立ち尽くしたままじっと地面を見ていた。ダウンジャケットの フードの上に雪が積もっていくのもお構いなしに、少年はただただ、じっとうつむいて地面を睨むように 見ていた。  どのくらいの間そうしていたのだろう。私も時間を忘れ、その少年を見ていた。そんな私の視線に 気がついたのだろうか、ふと少年が顔を上げこちらを見た。別に声をかけるつもりなんてなかったのだ けれど、こんな風にばっちり目線が合って見ていたのがばれたんじゃあ仕方がない。私はゆっくり 少年に近づきながら笑顔を作った。 「こんにちは。こんな雪の中、なにをしているの?」  少年は少し警戒したような顔で私を見ながら答えた。 「そういうお姉さんこそ、こんな雪の中で何をしてるのさ」 「私? 私はね、待っているのよ」  来ないあの人を。好きだったあの人。今でも一番好き。だけどもう、一緒にはいられない。あの人を 悲しませたくない。  なのに待ってしまう。約束もしていないのに、あの人が来るのではないかと思ってしまう。  私の言葉に何かを感じ取ったのか、少年は少し首を傾げたままじっと私を見ていた。それから決心した ように下唇をきゅっと噛んでから、低く小さく言葉を発した。 「ボクは、すみかを捜しているんだ」 「すみか?」  驚いて繰り返した私の言葉に少年は「うん」と頷いた。  こんな雪の中、ずっとうつむいて立ち尽くしているから何かあるのだろうとは思っていたけど、 もしかして虐待とかされてて家に帰れない子とか?  そうだとしたら、このまま放っておく訳にもいかない。警察とか児童相談所とかに連れていったら いいのかしら。けど、素直に一緒に来てくれるかしら。  そんな風に考える私をよそに、少年は再び地面へと視線を落とした。 「場所は分かっているんだ。氷の下。だけど、見つからないんだ」  真剣な顔で地面を睨み、少年はそんな不思議な言葉を呟いた。  氷の下? すみかが氷の下ってどういう意味だろう?  少年の見ている地面には、そういえば雪に埋もれそうな、アスファルトに出来た小さな水たまりが 確かに凍っていた。  少年はその氷を一所懸命に何かを捜すように見ている。 「氷はみんな繋がっているんだ。世界中の氷が繋がっているんだ。だから、冷蔵庫で凍らせた氷でも 捜せないことはないんだけど、自然の氷の方がすみかに近いから」  冷たい雪の中、少年の瞳が潤んでいるのは寒さのせいだろうか。  懸命に捜す少年につられて、私もアスファルトの氷を覗き込んだ。それに気がついた少年が驚いた ように顔を上げた。 「一緒に捜してくれるの?」  まんまるに開かれた瞳が期待に満ち、私を見上げる。 「私に見つけられるかしら?」  そう言うと、少年は嬉しそうに頷いた。 「大丈夫だよ、お姉さんはボクやすみかに近いから」  にこりと笑って、それからまた少年はアスファルトの氷を見つめた。  私も氷を覗き込む。アスファルトの上に張った薄い氷。氷の下にはアスファルトしかない。そのはず なのに。  コポリ。  小さな気泡が奥深くから浮かび上がってきた。  見間違い? 幻覚?  けれどそれは少年にも見えていた。少年は地面に手をつき水たまりを覗き込んだ。  コポ、コポコポ……。  再び小さな気泡が浮かんでくる。それと共に。 「すみか!」  少年の叫びと共にユラリと何かが見えた。 「すみか、すみか! お兄ちゃんはここだよ」  少年の声に応えるように浮かび上がってきたのは、小さな小さな手だった。  すみかって、この子の妹の名前だったんだ。頭の中のどこかでそんな事をぼんやりと考えた。少年は 妹を氷の下から助けようと両手で何度も氷を叩いている。 「すみか! すみか!」  何度も何度も拳を氷に叩きつける少年。  何度目の事だったろう、突然氷は割れた。シャーベット状に崩れた氷にバランスを崩し、少年は あっと言う間に氷の中へと姿を消した。  その時になって初めて我に返った私は慌てて氷の中へと手を伸ばした。助けなくちゃ、それしか頭に なかった。そこがアスファルトの上の薄い氷で子供が飲み込まれる程の深さがあるわけないとか、 そんな事も頭にはなかった。ただ、自分の目の前で沈んだ少年を助けなければという思いしかなかった。  服が濡れるのもかまわず氷の中へと腕をつっこむ。痛い程に冷たい水の中、沈んだ少年を捜し かきまわす。  たった今、たった今沈んだばかりだなんだもの、大丈夫。  だけど水の中に手応えはなく、気ばかりが焦る。  と、その時、何かが私の手を掴んだ。慌てて私はそれを掴み、引っ張った。重い。冷たさで感覚が 鈍くなっていて、手から放れそうになる。慌てて両手で掴み、全身の力を込めて引っ張る。  重い。だけどあきらめる訳にはいかない。この手には命が繋がっている。  やがて少年の腕と頭が浮かび上がってきた。だけどまだ息はつけない。たぶん少年のもう一つの手は、 妹を掴んでいる。  必死で私は少年を引っ張った。だけど、どんなにがんばっても私の力では少年を水の中から引っ張り 出す事が出来ない。妹を浮かび上がらせる事が出来ない。  助けを呼ぼうと辺りを見回しても、吹雪のせいか誰も通りかからない。  だけど自分でも気がつかない内に私は叫んでいた。 「助けて」  少年の腕を引っ張りながら、泣きながら叫んでいた。 「助けて。孝明、助けてっ」  いるはずのない人、ここに私がいる事なんて知らないはずの人。だけど私はあの人に助けを求めて いた。泣きながら、助けを求めていた。  腕じゃ引っ張りあげられないと気づいた私は少年の身体に手を回した。抱きしめるような形で少年を 引っ張り上げようとした時、バランスを崩した。  落ちる。  そう思った時、誰かが私の肩を掴んだ。力強いその手はそのまま私を少年ごと後ろへと引っ張り、 私は少年を抱きしめたまま仰向けに倒れた。  陸に上がった少年は意識を取り戻したように振り返り、繋がった妹の手を引っ張る。私も慌てて それを手伝おうとした時、私を助けた力強い腕が少年の妹の腕を掴み、彼女を引っ張り上げた。 「すみか、すみかっ」  少年は妹を抱きしめ、泣きじゃくる。 「お、兄ちゃん……」  小さな声と小さな手が、少年を抱きしめた。  本当ならすぐに携帯を取り出して救急車を呼ばなければならないのだろう。だけど私は、ただ少年と 妹を見つめていた。  二人がこの世のものではないと分かっていたのかもしれない。考えてみれば不思議な事ばかり なのだから。アスファルトにはった氷の下に人の沈む水なんてあるわけないし、少年を抱きしめている 小さな女の子はいったいいつから水の中にいたのか……。  だけど私は怖いとは思わなかった。ただ、二人が助かって良かった。それしか頭になかった。  地面に座り込み、二人を見ていた私を背後から誰かが抱きしめた。  そうだった、助けてくれた人がいたんだ。お礼を言わなくちゃと振り向こうとした時に耳に飛び込んで きた声に私は耳を疑った。 「びっくりした……」 「孝明?」  どうしてここに孝明がいるの?  いるはずのない人。だけど待っていた人。 「どうしてここにいるの?」  涙があふれる。会いたかった人。だけどもう会っちゃいけない人。 「お前の呼ぶ声が聞こえて、気がついたらここにいた。そしたらお前が子供を助けようとして一緒に 落ちそうになってたんでびっくりした。本当にびっくりしたんだぞ」  少し怒ったような声で、抱きしめる腕に力を込める孝明。 「ありがとう」  必死に涙を止め、そう告げた。そして彼の腕をはずそうとしたけれど、彼はますます腕に力を込めた。 「お前がいきなり別れようって言ったのも、びっくりした」  ズキリと胸が痛む。 「……聞いたよ、赤ちゃんの事。ごめんな、お前だけに悲しい思いをさせて」  彼の言葉に涙があふれた。誰が孝明に教えたの? 知られたくなかったのに。悲しませたくなかった のに。 「でもだからって、黙ったまま別れるなんて言わないでくれ」  涙が止まらない。彼はどこまで知っているの?  涙でヒリヒリする喉から無理矢理声を絞り出す。 「ごめんなさい。……でも、だめなの」  涙で言葉が続けられない。だけど孝明が知ってしまったんならちゃんと言わなくちゃ。 「お医者様に言われたの、もう子供は望めないって。あなたの赤ちゃん、産んであげられないの」  子供の好きな孝明は、いつだって結婚したらたくさんの子供を持とうって言っていた。テレビに 出られるくらいの子だくさん家族がいいなって笑いながら言ってた。  なのに私はもう、たったひとりの子供さえ望めない。孝明の望みを叶えてあげられない。 「だから孝明は私は別れて、赤ちゃんをいっぱい産んでくれる人と結婚して? 大家族になって?」  私にしてあげられるのは、もうそれしかないから。  だけど孝明は私を抱きしめたまま叫んだ。 「バカヤロウ! どんなにたくさん子供がいたって、そのお母さんがお前じゃないと意味がないだろう。 お前じゃなきゃ意味がないんだ」  後ろから抱きしめられているから、孝明が今どんな顔をしているのか分からない。分からないけど、 泣いている。私と一緒に孝明も泣いている。 「孝明、ごめんね。ごめん……」 「謝るなら別れるなんて言うな。お前はこれから先もずっと俺と一緒に生きていくんだから」  雪の降る中、私たちはしばらくの間そのまま泣き続けた。    気がつくと雪はやんでいた。我に返った私は、慌てて少年とその妹の姿を探した。だけど二人の姿は どこにも見つからない。 「孝明、あの子達がいない」  焦る私に孝明が不思議そうに尋ねる。 「あの子達って?」 「一緒に助けたじゃない。男の子と女の子」  だけど孝明は何の事だか分からないというようにキョトンとしている。 「覚えて、ないの?」  気がつくと、ずぶ濡れだったはずの腕や上半身は雪にこそ濡れているけど、水に入った程には 濡れていなかった。 「夢、だったの……?」  そう考えれば簡単かもしれない。そもそもアスファルトの水たまりにはった氷が割れて人が落ちた だなんて、誰が信じるだろう。  だけど、確かに私は少年を抱きしめた。その妹の手も掴んだ。  二人の命を助けた。そう思いたい。  孝明も一緒に助けたはずなのに、その記憶は失っていた。二人の姿が消えたと同時に孝明の記憶も 消えてしまったのだろうか。  残念、と思う反面仕方ないのかなとも思った。二人は不思議な存在だったのだから。    その後、私は孝明と結婚した。すぐには踏み切れなかったけれど、孝明は何度も私を口説きとうとう 私も了承した。  そしてそれから三年後、男の子を出産した。もう子供を持つことは出来ないとお医者様に言われて いたのに、奇跡だった。  そしてそれからまた三年、もう一度奇跡が起きた。  大きくなった私のお腹に今、小さな息子が耳を当て語りかけている。 「はやくでておいでー。かわいい、かわいい、してあげるよ」  そんな息子の頭を撫で、聞いてみる。 「弟と妹、どっちがいい?」  お医者様からもう女の子だと聞いているけれど、息子にはまだ教えていない。だけど誰かから聞いて いたのだろうか。 「おんなのこだよ」  きっぱりと言い、息子は私のお腹を抱きしめる。 「いもうとだよ、ぼくのいもうと。ぼくのすみか。こんどこそ、ちゃんとめんどうみるから。みずに おちたりしないように、ちゃんとみてるから」  私は驚いて息子を見た。だけど息子はそれに気づかず、お腹に耳を当てたまま赤ちゃんの音を聞いて いる。 「大丈夫、ありがとう。でも心配しないで。ちゃんとパパとママが二人のこと見てるから」  あの時、私は孝明と一緒に二人の命を救った。だけど同時に、私も救われていたんだ。  涙を流しながら私は、息子とお腹の中の子を抱きしめた。

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