キュリンギさんの事情  キュリンギさんは淋しかった。魔物の姿を見かけ「危険ですからしばらく来ないで下さいね」と 言われてから早十日。愛しのエルダの顔を見に行く事が出来なかったからだ。  頬杖をつき、ため息をつく。  エルダは今頃、何をしているかしら。  来てはいけないと言われると余計に会いたくなってしまう。だけど彼がキュリンギを危険に巻き込み たくないと思ってくれている事は確かで、それは素直に嬉しかった。たとえそれが彼女だけに向けられる 優しさではないとしても。  それにしてもあれからもう十日だ。 「エルダの事ですもの、きっともう魔物はやっつけちゃってますわよね」  ぱっと明るい顔になり、キュリンギはそういう結論に達した。  エルダは魔法使いの中でもとても腕が良く、どんな魔物にも負ける事なんてない。少なくとも彼女は 本気でそう思っている。奥ゆかしいエルダはきっと、そこまで強くはないと否定するだろうけれど。  どちらにしろ今までの経験上、エルダが魔物を退治するのに十日以上かかった事などなかった。 だからもう、きっと大丈夫。  キュリンギは自分の考えに満足してにこりと笑う。 「エルダの好きなベリータルトを作って差し入れに行きましょーっと」  うきうきしながらエプロンを身につけ、キュリンギは台所へと向かった。  いつものようにパンを焼いて行っても良いけれど、久しぶりに会うのだからエルダの喜んだ顔が 見たい。エルダは彼女に悟られないようにしているつもりらしいけど、パンや他の菓子を持って行った 時とベリータルトを持って行った時の反応は明らかに違っていた。一瞬ではあるけれど必ず頬が緩む。 その嬉しそうな顔がキュリンギは大好きだった。だから本当はいつだってその顔が見たい。だけど あまり頻繁に持って行くと、その内飽きられて喜んでもらえなくなりそうでキュリンギはこれ、と いう時にしか焼いていかない事にしていた。 「本当はフレッシュな物があればいいんだけど、季節がら仕方ないわよね」  春とはいえ、季節はまだ浅い。ベリー類が実をつけるのはもう少し後のことだ。だからキュリンギは 去年砂糖に漬けて作ったベリーのシロップをあれこれ取り出しにっこりと笑う。 「ストロベリーにラズベリー。クランベリーにブルーベリー。そうね、ミニタルトにして色々作っちゃい ましょう」  うきうきと材料や道具を取り出し、タルト作りに入る。  でももしまだ魔物があの辺りにいたらどうしよう。  作業をしながらふと、そんな事が思い浮かんだ。  あの犬のような禍禍しい魔物。もしもそれが犬のようなうなり声を上げて、襲いかかってきたと したら。きっとキュリンギは悲鳴をあげ逃げる事しか出来ないだろう。  そこへ颯爽と現れる、彼。 「危ない、キュリンギっ」  怯え、震える彼女を背にかばい、あっと言う間に魔法で魔物を倒す。 「エルダ」  喜び彼の名を呼ぶ。しかしエルダは怒ったように彼女に言うだろう。 「どうして来たんだ。危ないだろうっ」  厳しい言葉にシュンとする。 「だってエルダに会いたかったんですもの……」  せつなげに彼を見上げると、彼は突然彼女をがばりと抱きしめた。 「バカ、お前にもしもの事があったら……」 「なんちゃってなんちゃって、いや〜んっっ」  自分の想像に照れながらも嬉しそうに、頬を押さえて首を振る。端から見ていればバカみたいだろう。 だけどキュリンギは割と真剣だ。  もちろん本当に魔物に襲われたいだなんて思ってもいない。けれどそれがきっかけでエルダと親密に なれるのならば、ともうっすら考えてしまうのだ。  そんな妄想をしながらもキュリンギの手はちゃっちゃと動き、オーブンからはタルトの焼ける甘い 香りがし始めた。  そんな時、ガチャリと扉の開く音が聞こえた。 「なんだ。また愛しの魔法使い様に差し入れを焼いているのか?」  冷たい声がキュリンギの背に突き刺さる。けれど彼女は決してそちらを見ようとはしなかった。 「あら、いましたの?」  負けじと冷たい言葉で返す。見なくても分かる。この家でキュリンギにこんなに冷たい言葉をかける のは一人しかいない。 「貴方がこちらにいらっしゃるなんて珍しいですわね」  そんな嫌みで夫が傷つくとは思わないけれど、ついそんな言葉が出てしまう。別に彼が傷つこうが 傷つくまいが、どうでもよいのだが。  夫婦仲はもうとっくに冷めきっていた。そもそも二人が結婚をしたことが間違いだったのだ。そんな 事は二人共分かっているのに、離婚をすることが許されずキュリンギははがゆかった。 「今日は必要な物を取りに来ただけだ」  そう言い放つ夫を結婚当初は愛そうと努力した。だが無理だった。 「いっその事全部あちらにお持ちになれば良いのに」  夫には結婚する前から相思相愛の恋人がいたのだ。 「ああ、近い内にそうするつもりだ」  そしてキュリンギがエルダに惹かれていたのも、結婚前からの事だった。  そんな二人が親の言うなりに結婚したところで上手くいくはずがないのだ。  冷たい言葉を交わしただけで夫は部屋を出て行き、キュリンギもまた無視するように菓子作りを 続ける。夫を憎むという事はないけれど、かといって今更仲の良い夫婦を演じる事は出来ない。  そんな冷たい様子の二人をオロオロと見ていた一人の少年がいた。 「あの…ごめんなさい」  声を掛けられて初めてキュリンギはその子がそこにいた事に気づいた。 「あら、ニール。一緒に来ていたのね。あなたが謝ることはないのよ」  先程とは打って変わり、いつものようにキュリンギはにっこりと笑う。夫によく似た顔を持つ少年を 彼女はそれでも嫌いではなかった。 「でも兄が、失礼な事を……」  実の兄だからなのか、元々そういう事を許せない性分なのかそれともそういう年頃なのか、ニールは キュリンギという奥さんがいるのに外に女性がいる兄が許せない様だった。けれどだからといって兄の ことが嫌いなわけではないのだろう。こうやって付いて歩くくらいなのだから。 「あの人だけが悪い訳じゃないのよ。ううん、誰も悪くはないの。……お互い様だしね」  夫と自分の違いといえば、あちらは恋人同士だが残念ながらこちらは片思いという事だ。  それでも、両思いだろうと片思いだろうとキュリンギがエルダを好きな事には変わりがない。だから お互い様だと思ってたし、どちらが悪いという訳でもないと思っていた。  彼女の言葉に納得がいかないのか暗い顔をしたままのニールにキュリンギはにこりと笑って出来た ばかりのタルトをひとつ差し出す。 「試食してみてくれる?」  素直に受け取りニールはミニタルトを口へと運んだ。 「美味しいです。やっぱり義姉さんは料理が上手だなぁ」  少し笑顔を取り戻した義弟にほっとしながらキュリンギはタルトを籠に詰め、言った。 「今からエルダの所に差し入れに行くんだけど、ニールも一緒に来る?」  普通に考えれば夫の弟を浮気相手…とまではいかないが、そうなるかもしれない相手の所へ誘って 行くというのはおかしいのだろう。だけど彼女はそうする事で彼が喜ぶ事を知っていた。  それがキュリンギの思い込みでない証拠に、ぱっとニールの顔が明るく輝く。 「はい、行きます」  嬉しそうな笑顔でキッパリと答える。  その理由を知っている彼女は、ついからかいたくなって口にする。 「行けばマインちゃんに会えるものね」  その言葉にボッと火が着いた様にニールの顔が赤くなる。それを見て、ついくすくすと笑い キュリンギは言葉を重ねた。 「ニール、マインちゃんの事、好きなんでしょ?」 「え? な、なんで」  決して違うと言わないところが義弟のかわいいところだ。 「ふふ。お互い上手くいくといいわね」  キュリンギはエルダの顔を思い浮かべ、小さく微笑んだ。  そう、本当にお互い上手くいくといい。そう思いながら二人はうきうきと星見の塔へと向かうの だった。

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