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 久しぶりに歩く朝の森はとても気持ちが良く、新鮮な気分になった。エリティラの知っている森では ないのだけれど、なんだか駆け出したくなる。  朝のひんやりとした空気も朝露に濡れた木の葉も、何もかもがキラキラと輝いて見える。 「あまり離れて迷子になるなよ。こっちの道だ」  アルトワースも、いつもの魔法書を読む時のような難しい顔はしていない。嬉しそうに笑っている ように見える。そのことが嬉しくてエリティラはますますはしゃぎたい気持ちになった。 「そろそろ疲れないか? ここらで一度休憩を取ろう」  アルトワースの声に、エリティラも立ち止まった。お昼にはまだ早い時間だけれど、確かに少し 疲れた。 「そうね。何か召し上がる?」 「いや、飲み物だけでいい。目的地はもう少しだから、食事は着いてからでいいだろう。一休みしたら 出発しよう」  ちょうどこの道を通る者たちの休憩場所になっているのだろう、そこにはまるでベンチのように丸太が 置かれていた。  アルトワースは荷物を降ろし、その丸太に座った。エリティラも飲み物を籠から出し彼に差し出して から、その隣りに座った。  賑やかな城の中とは違い、ここにいると風に吹かれる木々の音や鳥のさえずりが耳を和ませた。  しばらくそんな音に聞き入っていたエリティラだったが、ふと小さな疑問が頭に浮かんだ。 「そういえば今日は空間移動の魔法を使わないのね」  空間移動のような高等魔法は体力を使う。エリティラも連れて行くとなれば尚更だろう。けれど以前 彼女を連れて空間移動した時、アルトワースはそれほど負担を感じているようには見えなかった。  少しの暇でもあれば時間を惜しんで魔法書を読んだり研究をしている彼が、今日はどうしてのんきに 道を歩いているのかしら。  不思議そうに尋ねるエリティラに、アルトワースは顔をしかめた。 「道中の景色も気晴らしになると思ったのだが。歩くのは嫌いか?」  エリティラは慌てて首を振った。こんな素敵な道なら何度歩いたって嫌になんてならない。 「ではもう少しだ。がんばって歩いてもらおう。行くぞ」  アルトワースは立ち上がるとひょいと荷物を抱え、歩き出した。エリティラも慌てて立ち上がり、後を 追う。  そうよね、彼だって城の中に閉じこもってばかりでは息が詰まるわよね。たまにはこんな風に森の中を 歩いて気晴らしをしているんだわ。  アルトワースの背中を嬉しそうに見つめながら彼女はその後を追った。  辿り着いたのは、それは美しい泉のある場所だった。緑の木々に囲まれたその泉はまるで神が宿って いるかのごとく、青々とした水をたたえ湧き出ている。中を覗けばまるで魚が宙を泳いでいるかのように その水は澄んでいた。 「綺麗……」  エリティラはしばらくの間、その泉に見とれ立ちつくしていた。アルトワースは彼女の様子を 満足そうに見つめた後、荷物を置きくつろげるようにと布を広げた。  エリティラはそっと泉に手を入れてみた。 「冷たくて気持ちがいいだろう?」  突然後ろから声をかけられ驚いた。いつの間にアルトワースはここに来ていたのだろう。 「ええ、こんなに綺麗な泉を見たのは初めて。ここにはよく来るの?」  鼓動が早鐘のようになっている。驚いたせいなのかそれとも彼が今にも触れそうなほど近くにいる せいなのか。分からないままエリティラは早口でそう告げた。 「いや、来るのは二度目だ。美しい場所だと思い出して君をここに連れて来たいと思った」 「え?」  思いもしなかったアルトワースの言葉にエリティラは動揺した。顔が熱くなるのを感じ、慌てて話題を 変えなければ、と思った。 「あ、あの。薬草。そう、今日は何の薬草を取りに来たの?」 「薬草? なんの話だ?」 「え? 違うの?」  立ち上がろうとしたエリティラの肩がアルトワースの身体に触れ、彼女は反射的に身を引いた。あ、と 思った時にはバランスを崩していた。  泉に落ちるという恐怖が背中を駆け上がる。気づいたアルトワースが彼女を支えようと手を伸ばしたが、 遅かった。エリティラは大きな水しぶきを上げて泉へと落ちてしまった。  彼女を助けるため、アルトワースは躊躇することなく自らも水の中へと入った。泉はさして深くはなく 子供でも足の付くくらいの深さだったが、突然バランスを崩し背中から落ちてしまった彼女は見るからに 我を忘れていた。人は慌ててしまうとひざ下に届かない水深でも溺れてしまう事がある。 エリティラもまた、落ち着いて立ち上がれば腰までも無いその深さに気づかず恐怖に顔をひきつらせて 手足をバタつかせていた。  アルトワースは急いで彼女を水の中から引き上げた。彼女は咳き込みながら、必死に彼にしがみついて くる。 「大丈夫か?」  声をかけてもエリティラは返事をすることなく、必死に彼にしがみつき息をしようと咳き込んでいた。  アルトワースはすぐに彼女を陸へ上げたが、彼女はその事に気づかないらしく離れようとしても 抱きついて離れようとしなかった。 「落ち着きなさい、もう陸の上だから」  彼女が怯えていることは分かっていた。落ち着くまで優しく抱きしめていたい、という気持ちも 生まれたが、アルトワースは彼女を引き剥がした。押し付けられる彼女の身体の柔らかさにそうせずには いられなかった。  やっともう水の中ではないと気づいたエリティラは、安堵しながらもガクガクと震えた。 「た、助けてくれて、ありがとう……」  未だ早鐘を打つ胸を押さえながら彼女はアルトワースを見上げた。水に落ちた自分がずぶ濡れなのは 当然なのだけれど、アルトワースもまた全身濡れていることに気づいてエリティラは慌てた。 「ごめんなさい。私のせいで、ずぶ濡れね」  震えながらも申し訳なさそうに彼を見上げる彼女に、彼は身体が温かくなった。 「いや、君が無事で良かった」  アルトワースの手がエリティラの頬へと伸びる。  その手の温かさにエリティラは安心感と共に目を伏せた。身体は濡れているせいで冷たいけれど、 頬に触れた彼の手がじんわりと彼女を温めてくれている気がした。  身体の震えが止まり目を開けようとした時、彼女の上に影が落ちてきた。手の触れているのとは 反対側の頬に軽くアルトワースの唇が触れる。 「さあ、濡れた服をなんとかしなくてはな」  その一瞬の出来事に驚き彼を見たけれど、アルトワースは何事もなかったように立ち上がり自分の服を 絞った。 「城に戻ったほうがいいな」  独り言のようにつぶやくアルトワース。  何事もない訳がなかった。彼女が泉に落ちた時、心臓が止まるかと思った。普段のアルトワースならば 自ら泉に飛び込むような事などせず、魔法で助ける方法を考えていただろう。だが、考えるまもなく 彼女に手を伸ばし、助け上げていた。気がつくと水の中にいた。  そして今、陸の上にあがり安心した途端に、濡れた服がはりつき彼女の身体の線を露わにしている事に 気づいた。しかも今日彼女は淡いピンクの服を着ていて、見事なまでに肌が透けて見えていた。なのに 彼女はまだその事に気づいておらず、隠すそぶりさえみせない。  目のやり場に困ったアルトワースは、地面に広げていた布を手に取りはたいてからエリティラへと 差し出した。 「羽織っていなさい」  言われて初めてエリティラは自分の姿に気づいた。慌てて布を受け取り、身体を隠すように巻きつける。  その間にアルトワースは荷物をまとめ、彼女へと手を差し出した。 「城に戻る。手を」 「え?」  今来たばかりなのに?  エリティラの表情はそう告げていた。けれど確かにこんなにびしょ濡れでこのままいれば、二人とも 風邪を引いてしまうのは目に見えている。  それでもせっかくやって来たのに、このまま魔法で城へと帰ってしまうなんて残念でならなかった。 「ここで乾かすことは出来ないかしら? 魔法を使えば普通よりも早く乾くと思うのだけれど……」  ポツリとつぶやいた彼女の言葉にアルトワースは眉根を寄せた。 「残念だが私は服を着たままで乾かすことの出来る魔法は知らない」  それはエリティラもだった。雨の続いた時には洗濯物を魔法で乾かしたことはあるけれど、それは風に さらしたり熱を加える方法で、濡れた服を着たままで風を吹かせたらそれこそ風邪をひいてしまうし、 熱の方は火傷をしてしまう恐れがある。服を脱がなければ乾かせそうにない。  不意に、濡れた服を木の枝にかけ裸になった二人が泉で戯れている情景が頭の中に思い浮かび、 エリティラは慌てた。  頬が熱くなるのを感じて振り払うように首を振ると、取り繕うように笑顔を作った。 「そうよね。ごめんなさい、おかしな事を言って。風邪をひかない内に戻りましょう」  ドキドキしていることを気づかれませんようにと思いながらエリティラは手をさしだした。 アルトワースもまた、自分の気持ちを誤魔化しながら彼女の手を取り空間移動の呪文を唱えた。

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