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      8  エリティラはその足で何の荷物も持たずに城を後にした。門番も、彼女が何も手に持たず普段着のまま だったため、出て行くのを気にもとめなかった。  エリティラはひたすら歩き続けた。テアナン村まで歩き続けるつもりだった。  もちろん無茶な事だとは分かっていた。アルトワースに連れてこられた時はほんの一瞬の距離でも 自分の足で歩けば一日中歩いても辿り着けない。そして彼女は旅支度をしていないどころかお金も 持っていなかった。宿に泊まる事はおろか食事をとる事も難しいだろう。  それでもエリティラは引き返そうとはこれっぽっちも思わず歩き続けた。  それからどのくらい歩いただろう。くたくたに疲れてエリティラは道端の切り株に腰掛けてため息を ついた。  城を出て来た事は後悔していなかった。けれど歩き詰めで足が痛くなり疲労と同時に空腹を覚えた エリティラは、せめてお金くらいは持ってくるのだったと悔やんだ。そうすればどこかの村や町で食事を し、宿に泊まって疲れた身体を休める事も出来ただろうに。  だけど今更引き返すわけにはいかない。もう少し休んだら行こうと思った時だった。道の向こうから 馬車の走る音が聞こえてきた。  同じ方向に行く馬車に、途中まで乗せていってもらえるかもしれないと淡い期待を胸に彼女は 立ち上がった。遠くに見える荷馬車には若い夫婦が乗っているようだった。 「あの……」  近づく荷馬車の夫婦に声をかけようとしたその時、その内の一人がよく知っている人物と気づいて エリティラは思わず叫んでしまった。 「シラグ!」  名前を呼ばれて驚いたシラグとその夫は馬車をすぐそばで止めた。けれどどうして私の名前を 知っているのだろうと不思議そうな顔をして彼女を見ている。  エリティラもすぐにその理由を思い出した。シラグと会っていた頃は髪を染め派手な化粧をして 黒い服ばかりを着ていたのだから彼女が誰か分からなくても不思議ではない。  けれどシラグはエリティラが名乗る前にその事に気づいて笑顔を見せてくれた。 「もしかしてエリティラ? なんて素敵なの?」  シラグはエリティラの変身と再会を喜び、馬車から降りて抱きしめてくれた。 「けど、どうしてこんな所に? お城の魔法使いに嫁いだって聞いていたけれど……」  その言葉にエリティラの胸はズキリと痛んだ。それでもなんとか笑顔をシラグに向けた。 「村に帰る所なら、一緒に乗せていってもらえないかしら。馬車の上でも話しは出来るでしょう?」  彼女の様子に気づいたシラグはもちろんよ、と笑顔で彼女を馬車に乗せ、それからしばらくの間は 自分の事を話して聞かせた。最近の村の様子や自分達の生活の事、そして何よりエリティラに 知らせたかった事を。 「私、赤ちゃんを授かったの」  その言葉に驚きエリティラは彼女のお腹を見た。まだそんなに目立つ程ではないけれど、そういえば ふっくらしているような……。 「やっとつわりが終わって落ち着いてきたの。ほんと、大変だったわ」  誇らしげな笑顔にエリティラも笑みがこぼれた。 「おめでとう。なんて素敵な知らせかしら」  シラグの中にもうひとつの命が息づいていると思うと不思議な気持ちになった。  けれどわたしには同じような幸せは望めない。シラグのように愛し愛され、命を育む事は出来ないの だわ。  そう思うとエリティラは知らず涙があふれ出た。今すぐ彼に会いたかった。けれど会ったところで彼は 私を拒絶する。信用さえされていない。会えば彼の態度に傷ついて、もう立ち直れなくなってしまう かもしれない。  あふれる涙を手で隠そうとするエリティラの肩をシラグはぎゅっと抱いた。 「泣きたい時には泣いていいのよ。それを教えてくれたのは貴女じゃないの、エリティラ」  シラグの優しい言葉にエリティラは涙を止められなくなった。彼女の相談にのっていた頃、つらそうな 彼女にそう言ったのは確かにエリティラ自身だった。  つらい事を心の中にため込むと悪い方にばかり考えてしまいがちだから、泣きたい時には、泣ける 時には泣いた方が良いと。  とめどなく流れる涙を両手で受け止めながらエリティラは泣いた。そんな彼女を抱きしめながら シラグは優しく頭を撫でた。  お腹に小さな命を宿しているからだろうか? シラグの手はまるで幼い頃亡くした母のように優しいと エリティラは感じ、子供に戻ったようにいつまでも泣き続けた。  エリティラが城内にいないと気づいたのは夜になってからだった。  夕食時までは彼自身が彼女と顔を合わせたくないと思い、彼女のいそうな場所を避けていたせいもある。 だが、夜も更けるとアルトワースは部屋に戻って来ない彼女の事が気になり始めた。  あんな事があった後だ、今夜は部屋に戻って来ないつもりなのだろう。  最初はそう思っていた。城の中には危険なものなど何もないし、眠る場所を見つける事もそう難しい 事ではない。広間や空き部屋でごろ寝している者は結構多い。  だが、エリティラが広間で男達に混じって眠っている所を想像して、アルトワースは胸が気持ち悪く なるのを感じた。もちろん広間で眠っているのは男達だけではない。きっと彼女は仲良くなった女友達と 共に眠っているのだろう。  そう思い彼は気持ちを落ち着かせようとした。そもそも彼女がアルトワースの妻だという事を 知らぬ者はこの城にはいない。国一番の魔法使いの妻を寝取ろうなどと思う者などこの城にいるはずが ない。  そう自分に言い聞かせようとした時、アルトワースの頭にあの青年の顔がよぎった。  まさか。  突然怒濤のような不安に襲われた。エンビスはエリティラがアルトワースの妻と知っていても 言い寄っていた。エリティラはなんとも思っていないと言っていたが、彼の方は彼女に好意を寄せて いたではないか。  喉がカラカラになるのを感じたアルトワースは水差しに手を伸ばして初めて自分が震えている事に 気づいた。  怒りで震えているのか? それとも恐ろしさで?  アルトワースはとにかく落ち着かなければと思った。こんな風に感情が抑えられないのも かけられている魔法のせいだ。  だが、どんなに振り払おうとしてもエリティラはエンビスの所にいるのではないかという疑念が 振り払えない。  エンビスは彼女に好意を寄せていた。悲しみに沈んでいる彼女を見つけたなら必ず優しく 慰めるだろう。そしてそのままどこかの空き部屋に彼女を連れ込まないとどうして言える?  アルトワースは無意識に遠見の呪文を唱えていた。目の前の床に次々と城の広間や部屋などが 映し出される。だが、なかなか彼女の姿を見い出せない。  あるひとつの部屋が映し出された時、アルトワースはギクリとした。薄暗く狭いその部屋で ひと組の男女が愛を交わしていたのだ。  アルトワースは頭に血が上るのを感じた。今にもその現場へ飛んで行こうと呪文を唱えかけた。 だが、ふいに見えた女の髪がエリティラとは違う事に気づいた。よく見れば男の方もエンビスではない。  アルトワースは体の力が抜けるのを感じた。それでも続けて遠見の映像を床に映し続ける。  やがて彼は廚の隅で眠るエンビスの姿を見つけた。辺りを見渡したが、エリティラは一緒では ないようだ。  ひとまず息をつき、アルトワースは再び彼女の姿を捜し始めた。だが、どんなに捜しても彼女の姿は 見つからない。  そこで初めて彼は彼女が城から出ていってしまった事に気がついたのだった。

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